1990年代特に2000年代から強まってきた新自由主義に対して私は強く批判を申します。この流れは2010年代から2020年代にかけて弱まるどころか、文部科学省による教育への起業家教育という名の介入など事態は悪化しています。一つのポイントで私はこの点を強く批判したいと思います。
まず、前提として学校が良くなれば社会は良くなるというものがあります。これにはいろんなケースが考えられますが、例えば大日本帝国時代、太平洋戦争時代の日本は学校教育において、国のために命を落とせという命令を子供たちに行っていました。その洗脳もあり、日本では非常事態になり、海外ではさらに多くの人命が失われるきっかけとなりました。このことから考えても学校という制度は社会というシステムに強く影響を及ぼすものだということは間違いないと言えるでしょう。
では、なぜ新自由主義的な発想の教育ではあるいは学校ではいけないのか。競争という概念がキーワードになります。多くの人は競争を無批判的あるいは迎合的に捉えていると思いますが、そのような価値観により育った、そんな子供たちは社会に出ても強く、競争を願うようになります。無批判的に無思考的に。あるいは無意識的に。するとどうでしょう、競争しなければ本当に行けないのでしょうか?という疑問にたどり着くと思います。先に蛇足を申しますと、競争以外の社会を知らない。あるいは新自由主義以外の社会を知らない。そんな創造力の大いなる欠如により、大人たちは子供たちに教育を通じてそのような洗脳を行っているのではないかという懸念があります。自分たちの当たり前の姿しかわからず、つまり自分たちの当たり前の姿がなくなればすぐパニックを起こす。これは新型コロナ時代にも見られた傾向です。それを一つのバネとしてオンラインなどの副産物は生まれましたが、これは若者を中心として発展してきたと言ってもいいでしょう。大人は昔の価値観で、そのままで競争社会を移転させてきた。それだけの話だと思います。その中で競争社会により社会に本当に有益な人材や組織がなくなってしまう。そんな懸念も考えられるでしょう。というより悪い言い方ですが、媚び売りのような、上に立っていくだけの知性と能力しかもっていない精神の貧困した大人たちはそのような本当に有益な存在をあえて潰す、というのはよく見られる傾向だと思います。こういう理由もあり、競争社会は十分に機能していないのではないか?そう考えるに至る結末になりました。
そう言うとすぐ代替案を出せという議論にもならない、議論のふりをした意見を言われそうですが、簡単な話、協同的な協力的な社会が作られればいいのではないでしょうか? そこに世界はそんなに甘いものではないという精神論以外でまっとうとした批判ができるのならぜひ聞いてみたいものです。今ある社会だけしか想像ができないのであればそのような仮定法の中の社会など想像の可能性にも及ばないのが新自由主義を推進する彼らの思考力ではないでしょうか?少しだけきつい言い方になりましたが、そもそも競争社会は独裁社会にもつながり、つまり、それはこれならようやく彼らにも響くと思いますが、全体主義につながる思想です。
私たちはただここにおいて新自由主義を批判するに終わりましたが、もちろん、それよりもポスト的な発想をした方がいいというのが建設的な考え方でしょう。そもそもある陰謀論的な考え方では、ワンワールドオーダーあるいはグレートリセットという考え方もあるようですが、むしろこちらの考え方は新自由主義を批判するものでありまして、彼らの言っていることと矛盾したするというか思考停止に陥る結論になると思うのですが、考えすぎでしょうか。ともかく、こうした理由から新自由主義以外の生き方も少しは考えてみてはいかがではないでしょうかという冷笑的な語りによってこの駄文を終えようと思います。
追記:
大急ぎで付け替えますが、教育は生きることにつながっていなければならないというのは当たり前の事実です。こうした点から、私は言葉の気付きのような一見能力主義的にしか聞こえない教育理念には疑問を持っています。