女王の教室と私の恩師
今回は私の恩師である、ある先生についてお話しさせていただきたい。この先生はドラマ「女王の教室」の主人公阿久津真矢のような先生であった。どのような点でそう言えるのか理由を述べたい。
まず生徒に対して壁になっているところである。生徒が自らを乗り越え成長して行くように様々な工夫を凝らし、さまざまな演技を施しそしてそれを実践されている。世間ではまるで生徒を甘やかすような教育観が大事とされているが、それとはまるで違った価値観を持たれている。しかしただ厳しいだけではないのだ。それが次の点である。
先生は生徒とのコミュニケーションを何よりも大事にされている。授業でまるで女王の教室を思わせるかのような荘厳な雰囲気が漂ったコミュニケーションを行う先生である。しかしひとたび授業という教卓のステージを降りるとまるで別人格のような暖かく慈愛に満ちたコミュニケーションを制度と行う。これは普段のコミュニケーションを大事にしており、そこで生徒との「人間関係」がきちんとできた上で、授業では厳しい態度をとり壁となることを、何より大事にされているからである。こうしたさまざまなコミュニケーションにより先生は生徒の関係を何よりも大事にする。じゃあそれはどうしてそのような指導を行うのだろうか? ここからは私の愚見も交じるが考えたことを述べたい。
それは先生が生徒の命を何よりも大事にしているからだと思う。生徒が傷ついたり苦しんだりしているのを何よりも先に察知し、そういう背景を大事にされている。そしてもしそのような生徒がいたらきちんと対面で一対1で向き合うのが先生だ。教室のステージを降りると生徒は、まるでじゃれあうかのようなコミュニケーションを行うのも、それは生徒の命を大事にしているからではないか? 私はある先輩から教育の最大の失敗は学習者の死であると学んだ。これを他人に話すとなぜか笑われるのだが、私はこの先生の教育実践を通じて本当にそれは笑い事ではなく、何より大事にしなければならない価値観だと実感している。だからこそ先生は少しの油断も許さず生徒と向き合ってこられた。
これらはまるで女王の教室の主人公が普段は厳しい態度を生徒にとっているにも関わらず、彼らが傷ついてないか苦しんでいないかをずっと調べて、そして監視のように見守っているのに類似していると私は考える。
教育において待つことは大事である。教育とは希望を語ることである。そして教育は愛だ。様々な教育についての言説は聞かれるが、これを凝縮して実際に自分の目の前の生徒に送り込んでいるのが先生の教育だと思う。私はまるで先生のようにはなれなかったが、この恩師である先生の大事にされてきたことを今度は若い人たちに受け継いでいくのがこの先生と出会ってしまった私の使命だと思っている。私は伝える人として、それはある意味教育の1種ともいえると私は考えているのだが、私なりの人生を歩んでいきたいと考えている。
人生なんて所詮暇つぶしというが、人生で大事なのはどれだけ思い出を作ったかであろう。私も今までのさまざまな思い出とともに、そしてこれからもさまざまな思い出を作っていきたい。