ノーム・チョムスキーの政治批判を読むと、彼が言語学の専門家ゆえに政治批判にシフトしたのがなんとなく理解できます。彼のアメリカ政府批判をはじめとした政治批判的活動は言語を中心の軸に据えているからです。たとえば、このような言語の扱い方です。彼によると「民主主義」は政治・経済権力者による一方的な定義だけが許されていて、そのほかは許諾しません。そしてメディアはそうした権力者による「民主主義」の視点から報道するばかりで、それ以外の世界観は民に見せないようにしています。こうして民が考える力を持つことを「妨害」するのが「民主主義」という定義の役割になります。このように、チョムスキーは言語について、それが持つ可能性はどのようなものだろうかと熟慮し、その思考を基軸にした政治批判を展開しているのです。ここから学べることは、私たちはほとんどがチョムスキーのような知の巨人ではないため、なにかしら自身の柱となる思考のための道具を私たちなりに持つことにほかなりません。行動に移していく、というより、行動するときに共に駆け巡る「パートナー」のような柱を意味することにします。それは学術的な理論でもかまいませんし、他人との対話で身につけた思考様式でもかまわないと思います。私の場合は言語学の語用論、社会学の社会システム理論、カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル理論などがそれに当たると思います。これらをときに相互作用させながら、自分なりによく考える時間は意図的に持つようにしています。大事なのは、考える手段を補強してくれる道具を持つことです。悪魔にとって怖ろしいのは、対抗してくる戦士たちが強力な剣を持つことなのですから。