英語教育の質的研究会

和泉敏之による英語教育に関するコモンです。

今日のアウトプット(2024. 11. 10)

今日は自分のXに以下の駄文を書き連ねました。

 

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1

人間がステレオタイプ的理解をする際には、自身の認知環境に関連性のある理解解釈を行う特性が働きすぎている。これは複雑性の縮減を促すための、すなわちダブルバインドに陥ることを回避するための人間の特性であると考えられる。この事態を打破するためには、多少の複雑性の担保を譲歩し、ダブルバインドに意図的に組み込まれて、その状況から少しずつバランスを取っていくしか仕方がないのではないか? つまり大言壮語のような言説にぶら下がるのではなく、軽度の処理から処理を進め、バランスが乱れないぐらい自我と他我の関係を構築的に守っていくしか仕方がないということに帰結する。

 

2

ウィトゲンシュタインヘーゲル的に理解するとどうなるのだろう? ウィトゲンシュタイン、とりわけ後期の彼はあくまで日常言語にこだわる姿勢を保っていたが、ここに観念や概念という装置を持ってくるとどうなるのだろう? すなわち世界はファジーであり、言語は世界を切り取るだけの効力を持つことに過ぎなくなるのだろうか? いや、ここにおいては、ウィトゲンシュタインから考えるよりもヘーゲルの考えを深めて行った方がいいのではないか? すなわち観念や概念というのは日常言語に置換された場合にある程度の固定化が見込まれるくらいだということができるのではないか? その際、ヘーゲルが論理学でも重視していたような意味という装置が持つ。効力はますます重視されなければならないと考えられる。

 

3

語用論の世界では、私は認知語用論に信望を置いてますが、Griceの言語語用論とでも言うような、哲学の世界にも最近惹かれてきました。彼の唯一の難点は、会話における truthに重きを置きすぎているところだと思われますが、ここはそれを逆手に取りましょう。truthの希求という従来の自然科学が目指していたような発想法を援用すれば、Griceの協調性の原則もあくまで抽象論ではなく、会話を分析するための抽出枠組みのように捉えることのほうが利口かもしれません。つまり、原則が会話に働いているというよりかは、会話を説明するための枠組みあるいは理論として捉えるべきではないかと。そこで難関になるのが関係性の公理ですが。これは量の公理と質の公理の最適値だという風に捉えてはいかがでしょうか? 例えば「あー、忙しい」という上司に対して、認知を土台として考えるならば、解釈は拡充し、「私がやりましょうか」という接続を促すかもしれません。しかし、Griceならば、truthを量と質の公理を通じて意図を解釈して、これほどの短文で表現するしか余裕がないほどの忙しさなのだろう、というようなバランスが関係性の公理の現出へと繋がるのかもしれません。私の拡大解釈では、Griceは短文の分析に優れており、認知語用論は連なりのある文章やテクストの分析に優れているという風に感じられます。つまり、それぞれが会話あるいはコミュニケーションを語る際の分析枠組みとして使えるわけですが、その使用用途を工夫すれば、そこから帰納的に原理の深い理解が促されるのではないかと感じています。まだまだこれについては熟慮が必要ですが、言語についてじっくり考えるためにも新しい議論が登場すれば、前もって存在していた枠組みを完全撤回するのは避けた方がいい、そう考えるに至りました。

 

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こうしてみると仮説の構築には、基礎研究をしっかりとじっくりとやることが必要不可欠だなあと振り返ります。脱線しますが、英語教育学における基礎研究というのは何なんでしょうか? 一般的には英語学や言語学、文学のような領域が考えられると思います。しかし、教育学という領域があくまで主眼とすると、それらをもちろん分け過ぎて、かたくなな心になったり、あるいは逆に優柔不断になるのはナンセンスだと思います。あくまで英語教育学の基礎研究というのは、心理学や脳科学、コミュニケーション論などのような人間に関わる学問領域が中心になるのではないかと愚問しました。以上の記述は間違っているかもしれませんが、こうした領域との深い接点を見いだすことを目指してきた英語教育学だと思うのです。基礎研究がしっかりなされて、そこから英語教育という事象に至った研究をもっと取り組んでいく必要があるのではないか、そう感じました。

 

もちろん英語教育といえば英語を無視するわけにはいきません。ただ、そこは教育に英語をプラスするというような、かなりの単純化された思考では済まないのではないかとも思っています。1 + 1 =2とは限らないのですから。私はここで人間もちろん日本の英語教育あるいは外国語教育でしたら、いわゆる日本人を対象として、我々がどのような「英語使用」をするのか? そうした、これまでよりもさらなるイメージを重視した研究がなされてでもいいのではないかとすら考えています。

 

このようにして建てられた仮説というのは、英語教育あるいは英語教育学の文脈に大いなる貢献をもたらすのではないか、それが私の現在の「仮説」です。

 

 

追記:

さらに妄想して以下の文章をX に書きました。

 

AI による英会話アプリの発展はものすごいが、先ほどブログに書いた内容から繋げると、個人の英語を録音して、そこから未来評価でこんな理想的な英語話者になる、というような予測を AI がしてくれると助かると個人的には考えている。個人的には。

 

 

とっととお風呂入って寝ます。おやすみなさい。