英語教育の質的研究会

和泉敏之によるオンライン質的研究会です!

物語とカウンセリング

カウンセリングについて、私は30代初期に河合隼雄の著作を読み漁りましたが、何か見えてきたものがあります。それはカウンセラーとクライアントはともに物語を作っているということです。優れたカウンセラーはクライアントに言うことに一つ一つ注文はしないものです。クライアントの言うことをよく聞きながらうんうんとうなずき、まるでオウム返しのようにクライアントの言うことを繰り返します。これに対してイライラするクライアントもいるでしょう。しかし、この時カウンセラーは何も考えていないのではありません。頭の中でクライアントが言いたいことを欲していることをよく考えているのです。もちろん、それはカウンセラーの創造に過ぎませんが創造力によって逆にクライアントが気付かないことも、カウンセラーは気づくことができるのです。そのようにして、カウンセラーはクライアントが言っていることに耳を傾けながら、いろんな方向性に導こうとします。それはもちろんコントロールではありません。クライアントが本当に行きたいと願う目的地を見極めながら、ともに探っていくのです。こうしてカウンセラーはクライアントとともに創造力の中で生まれる共通項を作っていきます。それは意味を繋いでいくと言ってもいいでしょう。クライアントの言ってることに意味をつけながら、それをいろんな方向に目を向けて、どこが適切かというのをよく考えながら意味を選択しているからです。これは物語を作ることによく似ています。物語を作るのは意味の連続体なのです。意味を繋いで行き紡いで行き、そしてたどり着くところは当初予定していたものと想像もつかないほど違っている場合があります。それは作り手に力がないのではなく、物語が要請する大きな力なのです。この時、著者は読者のことを頭の隅に置きながら物語を書いていく、そういうことが多いでしょう。それは自分の想像する読者であり、その読者との想像上の共同体が構築されることに他なりません。その共同体は形を変えていきながら、しかし、著者がそこから離れないと意思を持っていたならばたしかに著者とある意味の読者の間に佇みます。カウンセリングもこれと同様で、カウンセラーとクライアントの間にある意味の想像上の共同体が出来上がるのを待つのです。そうした共同体は関係性を固定するのではなく、関係性を変形させながらもきちんと構築的に定住させるように仕向けていくのです。物語とカウンセリングの共通点はここにあると言えるでしょう。優れた表現者というのはコントロールを嫌うものです。何かにコントロールされるのも嫌ですし、誰かをコントロールするのもできれば避けたいと願っています。そうして表現者は確かでない、可能性にかけて世界を作っていくと言えるでしょう。カウンセリングも物語を作ることもこう言ってよければ異次元の世界を作っていくことに他ならないのかもしれません。よくわからない文章になりましたので、ここで終わります。

言語と政治批判

ノーム・チョムスキーの政治批判を読むと、彼が言語学の専門家ゆえに政治批判にシフトしたのがなんとなく理解できます。彼のアメリカ政府批判をはじめとした政治批判的活動は言語を中心の軸に据えているからです。たとえば、このような言語の扱い方です。彼によると「民主主義」は政治・経済権力者による一方的な定義だけが許されていて、そのほかは許諾しません。そしてメディアはそうした権力者による「民主主義」の視点から報道するばかりで、それ以外の世界観は民に見せないようにしています。こうして民が考える力を持つことを「妨害」するのが「民主主義」という定義の役割になります。このように、チョムスキーは言語について、それが持つ可能性はどのようなものだろうかと熟慮し、その思考を基軸にした政治批判を展開しているのです。ここから学べることは、私たちはほとんどがチョムスキーのような知の巨人ではないため、なにかしら自身の柱となる思考のための道具を私たちなりに持つことにほかなりません。行動に移していく、というより、行動するときに共に駆け巡る「パートナー」のような柱を意味することにします。それは学術的な理論でもかまいませんし、他人との対話で身につけた思考様式でもかまわないと思います。私の場合は言語学の語用論、社会学の社会システム理論、カルチュラル・スタディーズポストコロニアル理論などがそれに当たると思います。これらをときに相互作用させながら、自分なりによく考える時間は意図的に持つようにしています。大事なのは、考える手段を補強してくれる道具を持つことです。悪魔にとって怖ろしいのは、対抗してくる戦士たちが強力な剣を持つことなのですから。

Giving is the best teacher.

2024年8月25日、田尻悟郎先生のオンラインセミナーに参加しました。ここで内容の詳しい紹介は避けますが、あまりに中身が濃く、私の内面も自分なりに変化したのでここに感想を簡単に残しておきます。

 

一言で申し上げますと、田尻悟郎先生は英語と共に生きているそしてその経験を生徒たちに伝えようとしているのではないかと感じました。というのも、田尻先生の授業は一見するとスキル重視な側面が深いと思われるのですが、これは表面しか見てない感想です。先生は文化、特に慣習や制度的な文化の違いもきちんと教え、教養面でも生徒たちにしっかりと指導を行ないます。というよりスキルと教養を軸にした二項対立がばかばかしいと思うほど、先生の授業は深みがありました。

 

私たちはこのような優れた実践者を目の前にした際に、テクニックや葉っぱの部分とでも言える小手先のことももちろん学べるでしょう。しかしそれ以上にこの先生は何を大切にしているのか、生徒にどのように育ってほしいのか、そのようなことをそれぞれが自分なりに想像力を働かせて、その先生から掴み取るのが大事ではないかと思いに至りました。それが、ビジョンというより教育理念になり、普段の授業指導のハウツーにつながるのではないかと考えました。この教育理念とハウツーを結ぶのがコミュニケーションと私は思います。つまりあまりに相手が大きすぎて自分でも吸収しきれないほど感動してしまった場合、その先生がどのようなコミュニケーションを生徒と一緒に行っているか観察することが大事ではないかと思いに至りました。そうすることによりハウツーからコミュニケーションの様式へと考えがおよび、何を大切にしているかという根っこの部分まで考えが深まっていくのではないかそう感じました。こういう観察者としての目は、人類学特に文化人類学から多く学べるのではないかと思っています。

 

はっきり言うと、評価というのは子供をバカにするわけではありませんが子供でもできる行為であり、評価の前段階であるいや評価以上に重要である指導の部分ができないと教師、あるいは大人として立ち振る舞いはできないのではないかと私は反省しています。評価を好きな人は多いようですが、まず自分自身が評価に立たされたときにどのように言動を取るか考えてみてほしいものだと思っています。それよりも重要な指導について深く深く心がけたいものです。

 

私は現在教育現場には出ていませんが、だからこそ教育について無責任にも責任のあることでも発言ができる立場にあると思っています。もちろん私が目指すのは後者の責任のある発言です、しかし自由な発言ができる部分が大きいのもこの私の立場でしょう。これからもこのような優れた先生に出会いながら、自分自身の内面を磨いていきたいと思います。

 

 

 

 

和泉敏之・プロフィール

和泉敏之

1986年、香川県出身。2009年、広島大学教育学部英語文化系コース卒業。2021年、2022年、東京大学MOOCs修了。英語教師、塾講師、家庭教師などを経て、現在は著作家/プロデューサーとして活動している。グレーター東大塾卒塾会・幹事、東京大学MOOCs受講生。専門は英語教育学。電子書籍の累計刊行冊数およそ30冊。主な作品に『短編小説 雪の少女(日本橋出版)』など。

 

興味

物語、教育/起業、医療

・物語:自身の経験をもとにメタファーとして児童文学に落とし込む取り組みをしています。

・教育/起業:大学生を中心とする若い方々に対する教育に関心があります。

・医療:健康医療に関するイベントを東京大学で実施するために企画運営に携わっています。

 

女王の教室と私の恩師

女王の教室と私の恩師

 

今回は私の恩師である、ある先生についてお話しさせていただきたい。この先生はドラマ「女王の教室」の主人公阿久津真矢のような先生であった。どのような点でそう言えるのか理由を述べたい。

 

まず生徒に対して壁になっているところである。生徒が自らを乗り越え成長して行くように様々な工夫を凝らし、さまざまな演技を施しそしてそれを実践されている。世間ではまるで生徒を甘やかすような教育観が大事とされているが、それとはまるで違った価値観を持たれている。しかしただ厳しいだけではないのだ。それが次の点である。

 

先生は生徒とのコミュニケーションを何よりも大事にされている。授業でまるで女王の教室を思わせるかのような荘厳な雰囲気が漂ったコミュニケーションを行う先生である。しかしひとたび授業という教卓のステージを降りるとまるで別人格のような暖かく慈愛に満ちたコミュニケーションを制度と行う。これは普段のコミュニケーションを大事にしており、そこで生徒との「人間関係」がきちんとできた上で、授業では厳しい態度をとり壁となることを、何より大事にされているからである。こうしたさまざまなコミュニケーションにより先生は生徒の関係を何よりも大事にする。じゃあそれはどうしてそのような指導を行うのだろうか? ここからは私の愚見も交じるが考えたことを述べたい。

 

それは先生が生徒の命を何よりも大事にしているからだと思う。生徒が傷ついたり苦しんだりしているのを何よりも先に察知し、そういう背景を大事にされている。そしてもしそのような生徒がいたらきちんと対面で一対1で向き合うのが先生だ。教室のステージを降りると生徒は、まるでじゃれあうかのようなコミュニケーションを行うのも、それは生徒の命を大事にしているからではないか?  私はある先輩から教育の最大の失敗は学習者の死であると学んだ。これを他人に話すとなぜか笑われるのだが、私はこの先生の教育実践を通じて本当にそれは笑い事ではなく、何より大事にしなければならない価値観だと実感している。だからこそ先生は少しの油断も許さず生徒と向き合ってこられた。

 

これらはまるで女王の教室の主人公が普段は厳しい態度を生徒にとっているにも関わらず、彼らが傷ついてないか苦しんでいないかをずっと調べて、そして監視のように見守っているのに類似していると私は考える。

 

教育において待つことは大事である。教育とは希望を語ることである。そして教育は愛だ。様々な教育についての言説は聞かれるが、これを凝縮して実際に自分の目の前の生徒に送り込んでいるのが先生の教育だと思う。私はまるで先生のようにはなれなかったが、この恩師である先生の大事にされてきたことを今度は若い人たちに受け継いでいくのがこの先生と出会ってしまった私の使命だと思っている。私は伝える人として、それはある意味教育の1種ともいえると私は考えているのだが、私なりの人生を歩んでいきたいと考えている。

 

人生なんて所詮暇つぶしというが、人生で大事なのはどれだけ思い出を作ったかであろう。私も今までのさまざまな思い出とともに、そしてこれからもさまざまな思い出を作っていきたい。

新自由主義へ改めて批判的駄文

1990年代特に2000年代から強まってきた新自由主義に対して私は強く批判を申します。この流れは2010年代から2020年代にかけて弱まるどころか、文部科学省による教育への起業家教育という名の介入など事態は悪化しています。一つのポイントで私はこの点を強く批判したいと思います。

 

まず、前提として学校が良くなれば社会は良くなるというものがあります。これにはいろんなケースが考えられますが、例えば大日本帝国時代、太平洋戦争時代の日本は学校教育において、国のために命を落とせという命令を子供たちに行っていました。その洗脳もあり、日本では非常事態になり、海外ではさらに多くの人命が失われるきっかけとなりました。このことから考えても学校という制度は社会というシステムに強く影響を及ぼすものだということは間違いないと言えるでしょう。

 

では、なぜ新自由主義的な発想の教育ではあるいは学校ではいけないのか。競争という概念がキーワードになります。多くの人は競争を無批判的あるいは迎合的に捉えていると思いますが、そのような価値観により育った、そんな子供たちは社会に出ても強く、競争を願うようになります。無批判的に無思考的に。あるいは無意識的に。するとどうでしょう、競争しなければ本当に行けないのでしょうか?という疑問にたどり着くと思います。先に蛇足を申しますと、競争以外の社会を知らない。あるいは新自由主義以外の社会を知らない。そんな創造力の大いなる欠如により、大人たちは子供たちに教育を通じてそのような洗脳を行っているのではないかという懸念があります。自分たちの当たり前の姿しかわからず、つまり自分たちの当たり前の姿がなくなればすぐパニックを起こす。これは新型コロナ時代にも見られた傾向です。それを一つのバネとしてオンラインなどの副産物は生まれましたが、これは若者を中心として発展してきたと言ってもいいでしょう。大人は昔の価値観で、そのままで競争社会を移転させてきた。それだけの話だと思います。その中で競争社会により社会に本当に有益な人材や組織がなくなってしまう。そんな懸念も考えられるでしょう。というより悪い言い方ですが、媚び売りのような、上に立っていくだけの知性と能力しかもっていない精神の貧困した大人たちはそのような本当に有益な存在をあえて潰す、というのはよく見られる傾向だと思います。こういう理由もあり、競争社会は十分に機能していないのではないか?そう考えるに至る結末になりました。

 

そう言うとすぐ代替案を出せという議論にもならない、議論のふりをした意見を言われそうですが、簡単な話、協同的な協力的な社会が作られればいいのではないでしょうか? そこに世界はそんなに甘いものではないという精神論以外でまっとうとした批判ができるのならぜひ聞いてみたいものです。今ある社会だけしか想像ができないのであればそのような仮定法の中の社会など想像の可能性にも及ばないのが新自由主義を推進する彼らの思考力ではないでしょうか?少しだけきつい言い方になりましたが、そもそも競争社会は独裁社会にもつながり、つまり、それはこれならようやく彼らにも響くと思いますが、全体主義につながる思想です。

 

私たちはただここにおいて新自由主義を批判するに終わりましたが、もちろん、それよりもポスト的な発想をした方がいいというのが建設的な考え方でしょう。そもそもある陰謀論的な考え方では、ワンワールドオーダーあるいはグレートリセットという考え方もあるようですが、むしろこちらの考え方は新自由主義を批判するものでありまして、彼らの言っていることと矛盾したするというか思考停止に陥る結論になると思うのですが、考えすぎでしょうか。ともかく、こうした理由から新自由主義以外の生き方も少しは考えてみてはいかがではないでしょうかという冷笑的な語りによってこの駄文を終えようと思います。

 

追記:

大急ぎで付け替えますが、教育は生きることにつながっていなければならないというのは当たり前の事実です。こうした点から、私は言葉の気付きのような一見能力主義的にしか聞こえない教育理念には疑問を持っています。