和泉敏之の質的研究会

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英語科学習指導要領の歴史ーー意味の歴史社会学的分析

英語科学習指導要領の歴史
ー意味の歴史社会学的分析ー

 和泉敏之

 

1    はじめに
2    意味の歴史社会学
3    英語科学習指導要領の歴史
4    考察
5    おわりに


英語を愛する、我が親愛なる友へ。


1    はじめに

 

英語力とは何なのだろうか? 英語教育に積み重ねられている問題は多いが、その根本には各概念の定義がきちんと なされてないことが 要因として考えられる。今回はその中でも複雑で深い議論を呼んでいる 英語力について 学習指導要領をヒントにして考えてみたいと思う。


 学習指導要領ではそれぞれの時代に合わせて また学習者のニーズに合わせて様々な 英語力観が打ち出されてきた。それを要約して系譜的にまとめてみることにより、歴史学のアプローチを用いることが可能になる。今回はニクラス・ルーマンの ゼマンティク論という アプローチを援用して、学習指導要領が 英語力についてどのようなコミュニケーションの元に設計されてきたか 少しばかり探ってみたいと思う。


 英語力については試験に役立つための英語力から、ビジネスの役立てるための英語力、あるいは深い教養としての英語力など様々な意味合いを持つものと考えられる。そこで 意味について その変容を社会構造と照らし合わせながら 考察している ゼマンティク論を 本小論では 方法としてあげてみたい。ゼマンティク論はこのように意味を取り扱っているアプローチであるが、それは 意味 の歴史社会学 とも呼べる 歴史学についてのアプローチである。以上のような観点で 日本の英語科学習指導要領についてゼマンティク論を用いて考えて、英語力についてのさらなる議論の手がかりとなれば幸いである。

 

2    意味の歴史社会学

 

ではここでゼマンティク論について 概略を説明したいと思う。ゼマンティクとは意味論と翻訳されることが多いが、言語学における意味論とは異なるものである。この分野は 意味 を題材として扱っている。ここで言う意味とは、ルーマン 流に言うならば、社会システムと心理システムにおいて、コミュニケーションを円滑に進める作用を持つ素材 群のことである。分かりにくいのでさらに説明しよう。我々はコミュニケーションにおいて日常生活的なスキーマのみを用いているのではない。もっと 社会や歴史 そして 文化に沈殿している 知恵 の ようなものを活用することがしばしばあるであろう。例えば オンラインで友人と音楽について会話をしている時、そのコミュニケーション 参画者は音楽に関する知恵を共有しているものと思われる。このコミュニケーションを円滑に進めるためのテーマや 題材が 意味を生成する源である。ではどのようにして コミュニケーションは接続されていくのであろうか? これもルーマンに依拠して言うならば、可能性と現実性を結合させる働きを持つのが 意味ということになる。例えば 英語教育について語り合っている時、教養主義実用主義という言葉から何を想像するであろうか? 教養主義とは 文法 訳読式のことを想像するのかもしれない。あるいは 文学作品のことを想定するのかもしれない。ここでコミュニケーション 参画者は教養主義のことをポジティブに、そして受験のテクニックとは 相性があまり良くないものとして考えていることにしよう。そのように要素をだんだんと 限定していって、つまり 複雑性を 縮減していって、コミュニケーションが円滑に進んでいくようにする、そのような働きをコミュニケーション 自身が持っていることになる。先ほど述べた 教養主義については、あらゆる意味の可能性から、ここでは 文法訳読式や文学作品の鑑賞をお互いに想定していることとする。つまりそれらの現実性が可能性と結びついたのである。こうして このコミュニケーションにおいて、教養主義は上記のような意味を持つようになった。


ここで問題となるのはこの意味というのは時代が変遷するに従って変容していくものであるということである。特に 社会構造との関連から意味は変容していく。これを応用させて 経験主義的な研究を行うことも可能になる。すなわち 社会構造との関連性から意味の変容を探っていくというアプローチである。


 今回の小論では 英語力という意味についてどのようなコミュニケーションが接続されてきたかについて 探求したいと思う。英語力といっても様々な捉え方ができるであろうが、日本の制度上の問題において、強い権力を持つ コミュニケーションとは、学習指導要領に他ならないと思う。それを踏まえて 英語科学習指導要領において、英語力という意味が どのような歴史をたどってきたかについて考えてみたいと思う。そしてそれらをその時々の時代背景、つまり 社会構造と照合させて、議論をより深みのあるものにしたい。ではここから 英語科学習指導要領について簡単にその変遷をたどってみたい。ここでは極めて ではあるが、英語 科学習指導要領の概要をまとめたものを時系列的に列挙していきたいと考えている。

 

3 英語科学習指導要領の歴史

 

 ここから 英語 科学習指導要領の歴史を紐解いていきたいと思う。英語科学習指導要領の要約を 下記に時系列的に示した。

 

S22

アメリカ教育使節団の報告書を元に作成される。「試案」として発表された。英語に 関しては、選択科目であった(地域による必要性の格差とアメリカのコア・カリキュラム が理由)。また、パーマーの英語教授研究所の影響が強く見られる(教育課長顧問が 研究所と関係のあったデル・レー)。聞く・話すと読む・書くに区分。‘Let's learn English'も発行された。「我々の心を英語を母語とする者の心と同じように働かせる」 。技能別の教材一覧。

 

S26

中央集権的権威を捨てた文部省が、教師の参考書として作成。膨大な量におよび、 英語版も同時に作成された。デューイの経験主義に基づいていた。

 

S33-35

日本の独立により、法的拘束力を持つようになると解釈されるようになった。科学技術の発達を背景とし 統性を重視したカリキュラム。英語に関しては、「具体目標」のみに限られている。実用主義への転換であろう。このとき、「言語材料」と「学習活動について学年別指定 が始まった。また、アメリカ国民に対する偏重ぶりも目立った。生徒の能力や進路に 応じて「英語A (実業高校用)」と「英語 B (普通高校用)」のコース制。

 

S44-45

1950年代、スプートニクショックにより、科学技術が発展。これに伴い、「教育内容の 現代化が図られた。「基礎・基本」『集約と精選』が重視された。実際は「新幹線授 業」といわれるような、高速の授業により、落ちこぼれが生まれた。英語に関しては、 「言語活動」が誕生。言語材料は言語活動のためのものとの見解であろう。「初級英 語」と「英語会話」が登場した。

 

S52-53

「文法」が消える。

前学習指導要領の反省を踏まえ、「ゆとりある充実した学校生活」をうたい文句に作 成された。英語に関しては、「概要・要点の考え方を導入。また、「英語Ⅰ」 「英語Ⅱ」 「英語IIA(英語会話)」 「英語ⅡB(リーディング)」 「英語IIC(ライティング)」が解説さ れた。このとき、「英語科」という学校・コースが新設された。

 

H1

新たな学力観を元に作成された。「自主性を重んじる教育」「心豊かな人間性の育成」がキ ーワードであった。英語に関しては、グローバル化の背景を元に、「コミュニケーショ ン」や「文化」の言葉が始めて使用された。さらに目標が「態度」にまで及ぶに至った。 「オーラルコミュニケーション A・B・C」 や 「リーディング」「ライティング」が誕生した。

 

H10

週休完全五日制開始後、初の指導要領改訂である。1996年の「生きる力答申」によ り、「生きる力」が重視された。それにより、総合的な学習の時間が誕生。小学校では 英語活動が行われることとなった。英語に関しては、中学校での外国語の必修化、言 語の働きと場面の提示、実践的コミュニケーション能力の重視が挙げられる。また、 観点別評価も導入された。

 

H20

前学習指導要領の反省点を明示した指導要領。S52-53 年より開始された「ゆとり」 からの脱却を試みている。英語に関しては、小学校での週1の英語活動の必修(4技 能を包括的に捉える、「コミュニケーション英語Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」の誕生、高校での「英語で授業を行うことが基本」など。

 

H30

グローバル化、AI、選挙権年齢及び成年年齢が 18 歳の引き下げなどの影響により、「知識及び技能」,「思考力,判断力,表現力等」,「学びに向かう力,人間性等」の三つの柱を中心とする カリキュラムマネジメントが求められる。外国語科の目標は,「知識及び技能」,「思考力,判断力,表現力等」,「学びに向かう力,人間性等」の三つの資質・能力を明確にした上で,各学校段階の学びを接続させるとともに,外国語を使って何ができるようになるかを明確にするというを重視する。また、「主体的・対話的な学び」が強調された。目標実現のための言語活動について,CEFRを参照しながらその内容を設定している。高校の科目はコミュニケーション英語基礎、コミュニケーション英語Ⅰ、コミュニケーション英語Ⅱ 、コミュニケーション英語Ⅲ 、英語表現Ⅰ、英語表現Ⅱ、英語会話、英語コミュニケーションⅠ、英語コミュニケーションⅡ、英語コミュニケーションⅢ 、論理・表現Ⅰ、論理・表現Ⅱ 、論理・表現Ⅲ となった。ほかにも小学校の英語活動の拡大など。

 

 以上が 英語科学習指導要領の大まかな歴史を表す 要約である。もちろん私が主観的に 恣意的に 抜粋した きらいは認めざるを得ない。だがこのように英語科学習指導要領の概要を少しずつ 示すことによって、その歴史を少しは 示せたのではないかと考えている。


 次に この学習指導要領の変遷について、先ほどの 意味 の歴史社会学、すなわち ゼマンティークの問題意識によって分析を試みたいと思う。

 

4 考察

 

 以上の歴史を鑑みて、文部科学省における委員会で、以下の英語力に対するゼマンティクによるコミュニケーションが行われ、学習指導要領が決定されたと考える。簡略的ではあるが、図に示したい。

 

    ゼマンティク           社会構造
英語 市民的教養主義         ←敗戦からの復興

英語 経済的実用主義         ←高度経済成長

英語 経済的コミュニケーション主義  ←グローバル化 ×国際化
↓ 
英語 経済的ツール主義        ←主体的・対話的な学び が独り歩き

 

 教養主義実用主義とは、古くから英語教育界隈で浸透した用語である。それをヒントにし、上記のゼマンティク上の意味を考えた。それに先行する社会構造の(微々たるかもしれないが)変動を右に示した。以下で、順に説明していく。


 まず 戦後間もない頃の市民的教養主義である。第二次世界大戦における敗戦によって、日本は その根底を覆す 改革を求められた。その中で、英語を敵対語として考えるのではなく、英語 に対して 親和的な態度を取ることが コミュニケーションによって調停されたようである。アメリカ式のカリキュラム やデューイの教育論を用いているのも、アメリカに対する親和的な態度が根底にあるということが伺えよう。「戦後」はいつ終わったのかというのは 様々な議論がなされているが、日本が新しい日本として生まれ変わった姿を告知するためにも、アメリカ式の英語教育は大いに影響力を持っていたのだと思われる。話は変わるが、明治維新から不平等条約の改正に至るまで、日本は近代化というラベルにより様々な労力をふるってきた。そのような外から見れば センチメンタルとも言える 努力が この時代にもその香りを見せていると思われる。


 では次に、高度経済成長時期の経済的 実用主義である。これは日本の独立から、東京オリンピック大阪万博 などの世界への日本の国力のアピール、モーレツ社員という用語で表現された日本人の勤勉 的な態度などが社会構造の中に組み込まれていると考えられる。無論 世界の影響を受けた日本の中で 科学技術の進歩の意義は外せないであろう。こうした社会構造を受けて、英語力とは経済を豊かにさせるための実用的なものでなくてはならないという意味がある程度調停されたと考えられる。英語力に関して政府以外の文脈でも、様々な論争が巻き起こされた。このような中で、英語力とは 国家を豊かにさせるための強い道具として意味が 調停されてきた。それは長年にわたって続き、ジャパンアズナンバーワン という スローガンが建てられた時期まで継続されたものだと思われる。文法は役に立たないから英会話をもっとさせようという風潮 は実はこのような時期から発生していたのであろう。途中で学校における生徒の暴力や荒れの課題を克服するために、広い意味でのゆとりの教育が実行に移されたという経緯 もある。だが 英語力はやはり 役に立つ道具としての意味が強く、それを達成するために学習されなければならないという価値観は強く残っていたのであろう。


 時代は昭和から平成に変わり、世界を見ても冷戦の集結などによって 英語力に関するコミュニケーションも揺さぶり がかけられた。ここでは 国際化というより グローバル化という世界の新しい「秩序」のもと、英語力に関するコミュニケーションが進んでいったと考えられる。すなわち 他の文化や国家との協調的な国際化というよりも、時空の圧縮による国家経済競争力の強化という目的を達成するために、他国との意思疎通をより充実させるという価値観である。日本の英語教育におけるコミュニケーションもこの影響を強く受けたと思われる。先ほどの役に立つ 英語 という意味からさらに進んで、経済的コミュニケーション主義とも言える、実情は 英会話への 盲信 なのであるが、教養主義からの脱却が大いに見られたのが この辺りからだと思われる。グローバリゼーションとコミュニケーションというのは 強いスローガンになり、英語力を英語 会話力という価値により測る価値観の理由つけとなった。英会話教室の増大 などがここで顕著になった。そして心の教育、生きる力、実践的コミュニケーション能力、コミュニケーション能力、というような 様々な「力」がブームになった時代とも言えよう。これは 能力主義成果主義を重んじる 新自由主義的な価値観へとつながる意味である。


そして 平成から令和に変わり、英語力という意味は 若者の起業ブーム や1人1台のスマートフォン時代におけるインフルエンサーという新しい価値の生成により、主体的・対話的な学びというスローガンが無批判的に世の中に浸透していくことになった。この時代はともすれば 特に思考停止に陥ってしまう危険性があるような風潮が見られるのも一つの解釈である。なぜなら SNS などの(悪)影響によって、読書 離れもさらに深刻化し、学習指導要領のテーマである 思考力という概念が 軽視されているという 逆説的な傾向があるからである。こうして主体的・対話的な学びというスローガンは英語力という意味にも大きく影響を与えるようになった。その象徴 がアクティブラーニングである。また対話という概念を深く思慮する識者は決して多くなく、空洞化した概念による教育のコントロールとも言える 、それまでにはない事態に陥っているような気がしてならないのが私の意見である。アクティブラーニングと経験主義教育は 親和性が多いにあり、再び アメリカ式の教育観がここで再評価されているというのも 注目すべき ことであろう。それらは 新自由主義的資本主義という社会構造において、それをさらに強化させるためのいわば オイル として捉えられるのである。競争と格差を是正するのではなく、そのエンジンを強化するために使われるオイルである。英語力という意味は この令和の時代において、新自由主義的資本主義のからくり でもあり、歯車ともいえるものに陥ってしまっていると考えられる。


ここまで 英語力の意味を 社会構造と照らし合わせて考えてきた。あまりに 新自由主義的資本主義の価値観にとらわれすぎていないだろうか。英語の学力をこのような経済的ツール とも呼べる いわば 道具として捉えていては、今後ますます 普及していく AI のような人間の能力 (ここでは日本人の能力)を拡張させるための単なる補助的道具としてしか英語のことを捉えられなくなるであろう。CEFRによる複言語主義の価値観とはまるで 画一をなす 現状 そして未来の予測となっている。また そもそも日本語を扱うことが身体・ 精神的な制約により困難な日本人学習者についても視野が及んでないのは 、一言で言うと 差別というラベルを貼ることができるであろう。補助的道具は人間の能力を確かに拡張させるものであるが、そもそも人間の能力は 拡張させるべきなのかということを今一度 我々は考えるべきではないか。

 

5    おわりに

 

以上の小論を踏まえて私なりの小さな小さな言語政策提言を行いたいと思う。それは外国語教育のための英語教育は「平和教育」のために行われるべきではないかという提案である。英語は世界に広がっていく中で特に合理性が 規則に及んでいった言語である。そのような特徴をもつといえる「 英語 」という 外国語 を最初の扉として、外国語の世界に学習者をどんどん 誘っていきたいところである。ここにある 価値観は日本語という母語だけが 言語ではないという それである。普段日本語というフィルターを通じて しか物事を見れなければ 世界が狭くなるし 思考は硬くなっていく。だが ひとたび 外国語に触れてその世界をどんどんと 内在化していくことが試みられれば、世界は、 学習者にとって開けたものになっていくであろう。先ほど指摘した 日本語を困難に操る 学習者に対しても、 例えば 日本語手話とは違う 海外の手話、 日本語点字とは異なるブライユ などを提示することはいくらでもできよう。我々は 改めて日本語 ・ 英語 それだけでなく 言語というものについて さらに メタ的に考えなければならない地点に来ているのではないか。


私は日本語(しかし、そもそも日本語とは何なのだろうか?)を中心としたコミュニケーションでは特に昨今 衝突のような現象が避けられる傾向があることを危惧している。コミュニケーションとは 合意をもとにしたものではなく、 極めて複雑で不確実なものである。誤解というコミュニケーションも肯定的に捉えていかなければならない。そんな中 日本語のみを使用していては コミュニケーションの醍醐味は味わえないのではないか。真の相互 文化理解とは喧嘩をしてでも仲良くやっていく力のことだと私は考えている。外国への眼差しを深め 広げていくことによって、日本語中心主義 あるいは 英語 一辺倒の価値観ではなく、自身の弱さや 未熟さを痛感し それに対して少しでも克服しようという人間的な向上心がそれこそ学習者が学習者を自ら教育するのではないか。昨今 教育の世界にはびこっている コーチング や メンターというような教師観や教育観にも、私は 懸念を覚えている。学習者は必ずしも 成長を1本の道、そしてただ一つの目標として動いていくわけではない。人間は常に変容し、 試行錯誤しながら、 思慮を踏まえて 自身を洗練させていくものである。教育とは 学習者が自ら自己について言及し、生成していく ナラティブと言っても過言ではないであろう。


以上述べたような価値観は、最終的に他者を大切にする 平和教育へとつながるものだと 私は信じている。教室の中での 言語活動 1つとっても平和教育へとつながる道は築かれているのである。私をはじめとした英語教育 ・ 外国語教育に関心を持つ 市民は さらに 視野を広げ 学びを継続させていかなければならないと反省している。


参考文献
江利川春雄(2023)『英語と日本人』筑摩書房
高橋徹(2002)『意味の歴史社会学世界思想社
ルーマン著、徳安彰訳(2011)『社会構造とゼマンティク(1)』法政大学出版局
ルーマン著、馬場靖雄訳(2020)『社会システム(上)(下)』勁草書房

 

参考サイト
国立教育政策研究所『学習指導要領の一覧』
https://erid.nier.go.jp/guideline.html
2024年04月28日に閲覧。


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