和泉敏之の質的研究会

和泉敏之によるオンライン質的研究会です!

やまだようこ(編) (2000)『人生を物語る』ミネルヴァ書房

私は2016年から小説をリリースしてきましたが、改めて 物語というものについて考えたいと思うに至りました。私が書く物語は自分の経験を メタファーとして表現していることが多いため、今のところ ネタに困ったことはありません。ですが やはり 物語というものについてきちんと考えなければいつか 袋小路に陥るような気がしてなりません。今回 やまだようこさんによる物語論をおよそ10年ぶりに再読して考えたことをまとめたいと思います。

 

「物語」の定義とは 簡単に言うならば

「2つ以上の出来事をむすびつけて筋立てる行為」

ということができます。

 

これは意味をつけていくことに他なりません。意味付けというのは 人生経験や知性を持って 初めて なしうることができる行為だと思います。私が人生経験豊富だという意味ではありませんが、障害の当事者として他の人では見えない 視点から 意味をつけることはある程度 得意ではあります。

 

次に物語も色々な分類ができることが挙げられています。

 

「フィクションが事実か、芸術的が科学的か、口頭で話されたものが書かれたものか。

そういうことを区別せず、 文学も新聞も事務書類も数式も電子メールも、言語で語られたものは全て「テクスト」という。」

 

芸術と科学というのはしばしば 二項対立で捉えられますが、テクストという面から見れば同じ情報によって生成される 、コミュニケーションの手段だということができるでしょう。複雑な世界をある程度まで限定していく、 そんな力を持った芸術と科学によって私たち人類は豊かに生きることができるようになってきました。

 

私は近年医療の科学について興味を持っていますが、強引に 文系/理系 というような分け方をする知性にはあまり 共感ができません。そもそも複雑な社会に出れば 文系/理系 というような分け方はあまり適切ではないのですから。もちろん 自分の性格、気質、特性などによって どちらが向いているかというのは考えられるでしょう。その「向きや不向き」についてごまかすのではなく 一旦 頭の中で考えて(広義の意味でのアウトプット)、そこから自分の仕方により、表現してみることが本当の意味での自己理解ではないでしょうか?

 

さて 最近は 私は特に ライフヒストリー研究について関心を抱くようになりました。このことについて以下のように 詳細にまとめられています。

 

ライフヒストリー研究の糸

・心理学‥ 「ぶ厚い記述」(ギアツ)になることなく數量化などの一般化へ。

ライフヒストリー(生活史)とライブストーリー(人生の物語)

‥生きられた生や三者により把握できる」

 

このように 誰かの生きるということを他の人も 疑似体験できるのが 物語あるいはライフヒストリーの効用だと思います。私は来年から、 主に 日本の 歴史上の起業家たちについての伝記を書いていくつもりです。その調査をする中で自分とこのように重なっている、あるいは 知人もこのような生き方をしているなあ など、その「生きる」ということを リアリティは持てない までにも、追体験して記述するのを 狙いとしています。

 

「経験された生…当事者主体のイメージ,感情

語られた生… 文化的慣習などにより左右される」

 

生きるということは 語っていくことによって物語 、そして 文化になっていくでしょう。かつては 口承を通じて伝えられた物語は、グーテンベルクの発明以来、 蓄積され記録された物語として機能しています。特に この数十年、 電子書籍などの Web を中心とした記録媒体も現れてきて、私はその恩恵を大いに味わっています。これからも人の生きるということについて 伝承していきたいと思っています。

 

そこで 痛感しているのが改めまして 意味という概念です。意味 は文化によって その方向づけが変えられる 不思議な現象です。例えば 大谷翔平という人物について多くの日本人は野球好きの少年が大人になったような素晴らしい選手だと感じる かもしれません。ですがメジャーリーグでは リーグの素晴らしい選手の一人として、その活躍を大いに期待される人材 なのです。別に成果主義が云々というわけではありませんが、このような国籍によっても大きく文化 、文脈 、意味などは変わっていくことなのです。

 

あらゆる文化に土台として成り立っている普遍的な文化というのもあるかもしれません。私はそれについてこれから考えていきたいと思っている次第でもあります。それにはやはり自分が 物語の執筆という実践を続けながら、その当事者だからこそできる 「抽象的に思考することによる 理論化」を目指したいと思っています。人間の学びは演繹によるところも多いのですが、帰納も重視しなければならないということです。

 

話が脈々と流れていきません。申し訳ありませんでした。お口直しに ラストに 私が 敬愛する、女優の浜辺美波さんの演技観について紹介したいと思います。

 

彼女を一躍有名にさせた 映画『君の膵臓をたべたい』の発表において 彼女は記者の方から 登場人物のセリフを使って自己紹介をするように求められたそうです。しかし彼女は笑いながら首を横に振りました。後から尋ねられるとその登場人物を 一人の人格として受け入れているからこそ 、ものまねのようなことはできなかったということでした。当時 まだ彼女は10代の若い女優でした。このような知性は彼女の読書体験や音楽 体験から成り立っているものだと私は考えています。

 

生きるとは 物語ること。生きるとは物語を作ること。そして私は教養こそが生きる力だと個人的に考えています。教養とは 単なる知識の寄せ集め ではありません。今回ご紹介した浜辺美波さんの例のような、生きる証拠を味わい体験していくことこそが教養ではないかと思う今日この頃です。