和泉敏之の質的研究会

和泉敏之によるオンライン質的研究会です!

エッセイ 2023.09.04.

年齢には勝てないものだとつくづく感じている。2月に脳梗塞で倒れ、一命を取り留めたが、血をサラサラにする薬は飲み続けているし、また時々右手が痺れてしまう。さらに4月に心臓が痛くなった、が、こちらは病院で異常なしと診断された。そして6月に右目の視界が真っ白になり、白内障と診断された。7月に医者に手術をまかせ、何とかこちらは成功した。現在も目薬を一日数回さしているし、基本的に光が入りすぎないように、サングラスをかけている。そして今度は肝臓の機能が低下している恐れがある。自分の体のことだが、知識のない私は医学に頼るしかない。もちろん医学に対してもさまざまな批判はあるわけだが、長年蓄積されてきた知恵を頼りにする他はないであろう。ともかくも私は体の衰えを感じている。もう昔のように走り回ったりすることはできないであろう、もちろん、これは比喩的な意味である。

 

最近、一日の中で散歩をする習慣を身につけた。歩いているとさまざまな観念が私の脳の中で蠢くのだが、これが部屋にいる中でじっと体を硬直させているような、そんな状態とは打って変わってである。観念は、浮かんでは消え、浮かんでは消え、しかし私は足を進めるほかにない。このように私の身体は、それとは全く関係ないような脳の動きとともに、それでも一緒にある。体が生きている、そう感じるのが散歩をしている瞬間である。思えば私は大学の時分に、教員免許を取るにはスポーツ実習が必修であったが、何より運動音痴を誇る私である。大学に入ってまで体育の授業で恥をさらしたくない。そこでウォーキングの授業を履修した。私のスポーツの専門はまるで歩くことかのようである。自転車には30代前半に乗り回し、おかげでマッサージ師からまるで競輪選手のような足だと言われるぐらいである。だが速度を速めて目的地にただたどり着くことを目指すことは、たくさんのものを見逃してしまうであろう。歩いているといろんなものが目につく。いろんなものが目に入ってくる。ただ気に留めず見過ごすだけのことも多々ある。だが、テンポをある程度決めて歩いていると、いろんなものが私に囁きかけてくるのである。そして頭の中の観念は不思議と刺激される。この歩くという何も生産性のないようなことを私は新しい趣味としたい。そんな取り留めのないことを考えた夜である。明日はどこへ行こうか。目的地を決めず、ただフラフラと移動するのはよくないと、藤塚の方に習った事がある。明日はどこへ行こうか。